公認心理師オフィス・こころの研究所
オンラインカウンセリング ・ ワークショップ・心理職のためのトレーニング
・ 企業研修
〒231-0862
神奈川県横浜市
《ゲシュタルト・インスティテュートはシー&スカイ・カウンセリング研究所と共同で「公認心理師オフィス・こころの研究所」を運営しています》
現象学・実存主義
1.ゲシュタルトセラピーと現象学
ゲシュタルトセラピーのバックボーンになっている哲学は現象学と実存主義です。オーストリアの現象学者、エドムント・フッサール(1859-1938)が大学で師事したフランツ・ブレンターノは「意識とは、常に何か(対象)についての意識である」という「志向性」の概念を打ち立てました。フッサールはこれを継承し、対象が実際に存在するかどうかは別として、人の意識が対象の存在に意味づけをしてその存在を組み立てて認識していると考えました。ということは、対象という存在は主観的につくられるもの、客観視しているつもりの対象の姿は、実は主観がつくっていることになります。そして、なぜ対象がそのように認識されるのかを掘り下げて追及しました。これを現象学的還元といいます。
ゲシュタルトセラピストは、クライエントとの関係でこれをどのように活かしているのでしょうか。
例えば、クライエントが「母親が嫌いだ」という話しているとします。母親という対象者について意識しているこのクライエントの主観を理解し、母親に対する感情がどこから湧いて出てくるかを理解することが、セラピストにとっての最初の仕事です。それをする上で邪魔になるのは、セラピストにとって〝母親とは何か〟というセラピストの主観です。クライエントが「うちの母が」と言っているときに、セラピスト自身が意味づけている母親像を意識にうかべてしまえば、その瞬間、クライエントを理解することから離れて行ってしまいます。ですから、セラピストの耳に「母親」という言葉が聞こえてきても、クライエントが言っている母親がクライエントの目にどう映っているのかを、クライエントの目を借りて見てみようとすることが必要になります。
2.セラピストに役だつ「現象学の3つのルール」
そのようなセラピストの姿勢を持つために役立つのが「現象学の3つのルール」です。
セラピストは、まず見えたまま、聞こえたままのことをつかみます。見えたこと、聞こえたことを、自分なりの分析、解釈、分類、評価、意味づけあるいは自分の価値観や過去の体験になぞらえたり、自分の中にある準拠枠にあてまるように変形せずにつかみます。コツは見えたまま、聞こえたまま、感じたままのことを、〝頭〟を通さずに感じ取ることです。頭というのは、思考の機能という意味です。そのために必要なことは、以下の3つです。
-
判断停止=物事に対する自分の意味づけや判断、先入観、解釈、思いこみを保留する(カッコに入れる)こと
-
描写=事実を解釈、分析することなく、ただありのままの事実として描写する
-
水平化または平等化=どちらの方がより重要か、あるいは優劣など、階層的なものの見方をしない
(参考:“Phenomenology, Existentialism, and Eastern Thought in Gestalt Therapy” S. F. Crocker, Chapter 4 in ”Gestalt Therapy: History, Theory, and Practice,” Edited by Ansel L. Walt & Sarah M. Toman, 2005.)
これらは、3つとも「目の前で起きていることを、価値観、常識、解釈、意味づけ、評価、意図など、思考のフィルターを通さずただありのままに見よう」という姿勢です。ほとんどの人は「母親とは○○な存在だ」とか「母親との関わりでは○○すべきだ」「○○するのが当たり前」などの先入観を持っています。これらは、世間と共有しているように見えて、実は自分の頭の中で紡ぎだしているものです。「価値観やものの考え方は人それぞれ違う」というのは当たり前ですから、世間一般と共有していると思うこと自体が幻想なのかもしれません。ですから、そのような固定概念も、一旦、〝自分の想像〟と横に置いて、フィルターを介さずにありのままを見てみようということです。「母親が嫌い」の「嫌い」の意味についても同様にします。
この姿勢を貫きながら、クライエントの「母親が嫌い」という気持ちがどこからどのように湧いてくるのかを、クライエントの主観の流れに沿って掘り下げていきます。フッサールの現象学的還元では、論理的に正確な言葉で掘り下げを行いますが、ゲシュタルトセラピーの場合には感情・感覚をじっくりと感じとり、味わいつくすことで図と地が自然と転換して新たな感情・感覚がとして現れるのを待つという流れを体験します。
3.ゲシュタルトセラピーと実存主義
実存主義の哲学者、ジャン-ポール・サルトル(1905-1980)の有名な言葉に「実存は本質に先立つ」があります。大雑把にいえば「実存」はあるがままの人、「本質」はあるべき姿や期待される、型にはまった人間像。ですからサルトルは、「あるがままの人」が、「あるべき姿」よりも大事であるということを言っているのです。この考え方は、社会規範などによってあるべき姿を強いられた人々が、自分らしく生きる自由に向かって自らを解放する勇気を与えました。
一方、ゲシュタルトのワークでは、「自分は○○であるべきなのに、△△である」という葛藤をテーマにすることがよくあります。ワークをする人に「『~べき』よりありのままの自分を大切にしましょう」という言葉を伝えたところで、それが役に立つことはまずありません。この葛藤で悩む人の心の中には「○○であるべき」という思い込みが強い力でこびりついていて、それは簡単にはずれるものではないからです。このようにこびりついた思い込みを「固着したゲシュタルト」と呼びます。これを固着させる力は、○○でなくなってしまうことに対する抵抗であり、その抵抗の中身は不安や恐怖感であることが多いようです。ゲシュタルトセラピーによってこの葛藤が統合されると、安心してありのままの自分を生きる可能性が高まります。
4.「選択」と「責任」
サルトルは、人間は本質という型に縛られないのだからどのように生きるかは自分で自由に選択できる。その一方で、自分がした選択には自分で責任を取らなければならないと考えました。
ゲシュタルトセラピーの開発者の一人、フリッツ・パールズは英語で責任を意味する「responsibility」は、ゲシュタルトセラピーでは「response-ability(反応する能力)」を意味すると説きました。これが最善の働きを見せるときは、環境との間で有機体的自己調節が機能するように反応するときであり、その方向に人が自分の選択の幅を広げられるようになることがゲシュタルトセラピーの存在意義だと、私は考えています。
人の行動、思考、感情は、他者から「させられたこと」ではなくすべて本人が選択しているものです。「自分は○○であるべき」というゲシュタルトを固着させたのも自分の選択です。自分でその選択をしたのは、自分が生きる過程の一時期にその選択が自分を生かすために必要だったからです。ところが多くの場合、本人は「させられた」選択と感じています。ゲシュタルトセラピーによって、自分がそれを選択することが自分にとって大切だったのであり、その時期、その選択によって自分で自分を守っていたのだということに感情・感覚レベルで気づく瞬間、自分の選択に責任を持ったことになります。同時に図と地の転換によって固着が緩み、他の選択肢を選ぶ自分に出会う可能性が開かれます。